不定期連載 山道をゆく 第66話 2001GW特別企画 山森峰 01/04/29〜 石鎚山(日本百名山20、庵選千名山62) 伊吹山(庵選千名山63) 瓶が森(日本三百名山31、庵選千名山64) 寒風山(庵選千名山65) 笹ヶ峰(日本二百名山26、庵選千名山66) 【生と死】 4/29(日) 重成庵…鴨居〜横浜〜品川…品川BT−富士川SA− 4/30(月) −豊浜SA−西条登道…伊予西条駅=下谷・成就駅…二の鎖 …弥山 …大砲岩…弥山…二の鎖…土小屋(国民宿舎石鎚) 5/1(火) …予佐越い峠…伊吹山…氷見二千石原…瓶が森ヒュッテ …瓶が森(女山)…男山…氷見二千石原…瓶が森ヒュッテ 5/2(水) …瓶が森(女山)…自念子の頭…林道…寒風山登山口 …寒風山…笹ヶ峰…丸山荘 5/3(木) …笹ヶ峰…丸山荘…下津池−伊予西条駅〜石鎚山…石鎚温泉 …石鎚山駅〜伊予西条…HyperMart…西条登道−豊浜SA− 5/4(金) −談合坂SA−品川BT…品川駅〜東神奈川〜鴨居…重成庵 …:歩き、〜:電車、−:バス、=:タクシー、 ・:電動縄式吊り篭 ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ 後編 《覚醒》 ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ 前編の粗筋: 夜行バスで四国入りし、石鎚山で死亡事故。 風雨は留まるところを知らず、愛媛高知県境に 芸予地震の傷跡に山葵を刷り込むが如く、 ただただ吹き荒れるのみ。 ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ 4日目(01/5/2) 3時半には起床し、シュラフやテントを畳み、餅入 り卵スープを食い、あれこれ支度をしているうち に5時を経過してしまった。空は未だ泣いていた。 やれやれ、今日も序盤から、レインウエアにザッ クカバーのお世話になるしかないのか。本ツアー 最大の長丁場を嘲笑うかのような天候に、既に諦 念の情しか湧き出でて来なかった。 昨日は空荷で軽々登った瓶が森山頂へ、今日はゆっ くり進んで行った。荷物は未だ重いし、今日は道 中が最も長く、無理は禁物だった。 山頂の先から笹ヶ峰方面へ分岐、しばし笹原を下 るも、風雨共に強く、森林限界も近い稜線上に立 つと、晴れてさえ居れば大展望は約束されるので あろうが、遮る物が無いと忽ち民放の台風現場レ ポーターと化してしまった。数十分、レポーター 体験をして飽きてしまい、西黒森山頂は今回はパ スをして林道を歩くことにした。林道だからと言っ て雨が避けられる訳ではないが、風速は数メート ル和らぐような気がした。自念子ノ頭への指導標 が目に入った頃、丁度、凪だった。戻って見るべ さな。 間も無く、先程の選択が失敗であったことを体感 する。瞬く間に台風レポーターに舞い戻ってしまっ た。至近の笹原以外にガスで何も見えず、雨勢は 増し、歩いているうちに林道とも離れてしまった。 アップダウンを繰り返すうちにまた嫌気が差し、 林道が恋しくなった。林道やーぃ、おーぃ、林ど〜 ぉ〜、何処行った〜。返事はなかった。 また数十分に渡り嵐を堪能した後、漸く光が挿し てきた。林道が近付いてきたのである。もう今日 は山道には戻るまい。寒風山までは・・・ 林道は舗装されているから、側溝が溢れていれば 忽ち川が如し。芸予地震の爪跡で、陥没、落石個 所は数十に達していた。挙句にこの大雨だ。これ から路盤が更にイカれてしまったり、山側からま た落石が発生しないとも言えなかった。耳を済ま せば、滝のような水音に、時々、ドンドンと異音 が混じっていた。人気は無かった。車も殆ど来な い。自然は、かくも厳しかった。 伊予富士への指導標がアントニオを誘惑したが、 今回は心を鬼にして断念し、林道歩行を続行した。 林道だからと言って楽な訳ではないのだが、稜線 よりは容易いだろう。伊予富士よ、今夜は雨が降っ ていて、お前の木琴が、聴けない。 さて、昨晩のうちに地図を確認、確か寒風山の下 まで林道が尾根沿いに走っていたと記憶していた。 伊予富士登山口をパスし、次は寒風山の筈だ。し かし、行けども行けども寒風山登山口は出現しな かった。林道を歩き続けて何時間になるだろう。 時折、トンネル通過にほっとした。風雨は依然と して強い。嗚呼、寒風山よ・・・ 何が俺をここまで駆り立てるのだろうか。昨日よ り確かに荷物は軽くなったことは事実だ。昨日よ り重荷に慣れたとも言えなくも無い。この風雨に 晒され続ければ、きっと仲良しでも仲間割れを誘 発してしまうことだろう。この山道には常人の5万 倍の忍耐力が必要だ。霊峰行脚で、俺は既に悟り を開いてしまったのかも知れぬ。 寒風山登山口まで随分長い道程だった。瓶が森ヒュッ テから5時間半以上が経過していた。後程地図を 再確認して愕然とした。伊予富士登山口から寒風 山登山口まで林道は九十九折に大きく湾曲し、尾 根沿いとは程遠く、数キロは遠回りを強いられて いたのだった。てっきり林道経由でコースタイム を稼ぎ捲くっていたかと思ったが、それは非常に 甘い考えであった。何度落石の跡を見させられた ことだろう。何度路盤の罅割れを確認させられた であろう。何度側溝が溢れ川と化した舗装路を歩 かされたことだろう。何度滝を見させられたこと だろう。それでも下手に居座れば、即ち自然災害 の藻屑ともなりかねなかったのである。歩くしか 道は、残されていなかった。 林道は寒風山登山口でR194にぶつかり、寒風山の 真下をトンネルで愛媛県側へと貫いていた。そう、 今は高知県に居るのだ。林道はこの先はない。こ の寒風山トンネルは何キロあるか判らず、狭く、 歩いて通過することは、不可能であった。例え通 過出来ても、更に丸山荘まで、どれ程歩き続けね ばならぬか、皆目見当も付かなかった。土砂降り の中、いよいよ山道に復帰する時が来た。 雨宿りの出来る休憩舎で、ゴミ収集をしていたオ ヤジさんが、この寒風山トンネルの生い立ちを延々 と語ってくれた。残念ながら、頷かせては貰った が、今回はもうトンネルには全く興味が無かった。 それより、この風雨で山道に復帰することで、ど れだけまたダメージを受けるか、それだけが気掛 かりであった。 踏み出した。急登だが、もうどうでも良い。樹林 帯で風が避けられるのが幸いだ。稜線に近付かね ば寒風山も笹ヶ峰にも到達出来ないのは当然だが、 また台風レポーターの再現である。戦わねばなら ない。漸く舗装路を抜けた安堵感と、自然の厳し さの板挟みである。 40分程だろうか、とうとう稜線に到達してしまっ た。愕然とした。寒風山までここから未だ1時間 半もあるのか。最後のウィダーインゼリーを飲み 干した。やらねばなるまい。更に笹ヶ峰までは1 時間半、そして、其処から丸山荘まで40分である。 ここで諦めても救う者はいない。 笹原の尾根道を再び行く。ゴアテックスのブーツ にレインウェアで完全防備の積りが、終ぞや隙間 から浸水始めてしまった。もうグジョグジョであ る。悪路の中、もう転んで汚れようが、怪我だけ は避けねばならぬ。この縦走路を歩くハイカーは、 やはり今日はアントニオが最初で最後のような気 がした。 携帯の時計を見ようにも、水滴侵入を助長するだ けでうざったい。濡れてしまっては果たして正常 動作するのであろうか。気分だけはコースタイム に未だ先んじているのだが。行けども行けども、 至近の笹原以外に何も見えなかった。ところが、 あの、見覚えのある標示が、心無い者の仕業で四 等分に割られてはいたが、視界に入って来た。 あと10分、ガンバレ。 福岡苅田さる。 今まで、「福岡かんだ猿」の名前で、北アは常念 岳、尾瀬の燧ケ岳、そして天城山に同様な看板を 見た。そうか、やはり福岡だ。「かんだ」の漢字 は苅田であったのか!氏の標示は百名山オンリー かと思ったのだが、ここ寒風山は百名山は愚か、 二百名山、三百名山にもエントリーしていないの だ。その寒風山の前に、氏は標示を解き放った。 氏もやはり、ここで辛酸を舐めたのであろうか。 道は九十九折にになって来た。愈々寒風山か。や がて巻き道と山頂ルートの分岐点に達した。この 天候で今や、山頂に目新しい物を見つけることは 至難の業であろう。しかし俺は何としてでも、今 日恐らく最初で最後であろう、寒風山登頂者とし て伊予山岳史に歴史を刻む必要があった。苅田猿 氏の労いも汲み上げたかった。嘗て、NHK朝の連 ドラ「ひらり」に登場した力士、寒風山。思えば 伊予の国の出身だったのか。なかなか粋な名前で はないか。きっと何か感ずる物がある筈だ。 山頂に辿り着いた。証拠写真も無い。山頂碑の他、 三角点程度で何も無いし、何も見えないが、今日 ラス前の山頂だ。きっと由来はその名の通り、寒 い風の山なのであろう。今日も冷たい雨が降る。 君が笑ってくれるなら。僕は悪にでもなる。今日 も冷たい雨が、降り頻っていた。止むことさえ予 想させないくらい、長く、長く、そして、長く--- 残りの稜線歩きは1時間半だ。雨の中、ザックを 降ろして行動食を穿り出すのも億劫ゆえ、ある程 度レインウェアのポケットに忍ばせていたのだが、 それも底を尽きて来た。飴玉はポケットに入り込 む雨滴でみるみるうちに融けて小さくなってしま う始末であった。水もだいぶ飲み尽くしてしまっ た。笹ヶ峰は未だか、未だか--- 尾根道が、愛媛県側に大きく蛇行し始めた。確か、 笹ヶ峰山頂の少々手前で丸山荘方面からの道と合 流する筈だ。今日、笹ヶ峰を断念してでも、丸山 荘方面へのルートを見失う訳には行かないのだ。 寒風山から1時間は歩いただろうか。全身グショ グショになりながら、くたくたになりながら、こ れ以上、歩を進めることから逃れたくなった。こ れ以上進んで、何があると言うのだ。笹原以外に--- すると、雨が止んだ。 昨晩ヒュッテまで来た丸山荘からの縦走者曰く、 明日は晴れるだろう、と宿のスタッフが言ってた とのことだ。この雨上がりは明日への序曲なのか。 風も心なしか、凪のようである。かれこれ10時間 近く歩き続け、息も絶え絶えだった。しかし、こ の寸分の雨上がりは、生き続けろ、との神の伝言 かも知れぬ。見渡す限り、俺を救うべき者はいな い。このまま諦めれば、また風に吹き晒され、雨 に打たれ続けるだけだ。歩みを止めることは、即 ち衰弱死しか待っていないのだ。そして、幾度と なく、あのピークが、あのピークが、と騙され続 けた笹ヶ峰の手前に、漸く丸山荘への分岐点が現 れた。嗚呼、これで救われたのだ。 雨はまた降り出した。しかし、明日、天候が戻ら なければ、笹ヶ峰登頂チャンスは今しかないかも 知れぬ。もう歩みの遅さなぞ、どうでも良い。も う惰性でしか、俺は動かなかった。しかし、今日、 あれだけ歩いて、漸く二番目のピークは目前だっ た。 辿り着いた。遠望地図、一等三角点、そして山頂 碑が待っていてくれた。また、風も強くなって来 た。晴れていれば瀬戸内海も見渡せるようだ。笹ヶ 峰。笹原の向こうに、お前は、いた。果てしない 笹尾根だった。また来よう。また、果てしない笹 尾根を、この目に焼き付けるために・・・ 丸山荘へは重力加速度のみしか俺を動かすものは なかった。これ以上寄り道をする余力は寸分もな い。さらば、笹尾根、さらば、笹原--- 建物の屋根が見えて来た。門を叩くと若いスタッ フが、素泊まりならOKとのことだった。食料は勿 論持参している。今日も、このコンディションの 中、テントを広げる余力は既に無かった。どうや ら今宵の客はアントニオのみのようで、管理室の ストーブにて濡れた衣類を片っ端から乾かさせて 貰った。結局そのまま、管理室で暖を摂らせて貰っ た。彼はフリーターでバイクツーリング好きな旅 人らしく、四国で知り合った人にこの丸山荘を紹 介して貰ったようである。明日からは予約客も多 く、スタッフも交代になるらしい。そして、残り 物でよければと、ご飯に赤出汁味噌汁と、筑前煮 までご馳走になってしまった。スタッフ交代で飯 を残しても仕方が無かったのかも知れないが、い やはや素泊まりの積りが晩飯付きで、雨中不幸中 の幸いか。煮物が胃袋に染み入る程美味かった。 海苔に雑魚まで付けてくれた。豪華な、山ご飯だっ た。 5日目(01/5/3) 部屋から見る窓の外は曇っていた。昨日までと何 ら変わり映えの無い鉛色の空だった。この空模様 のまま、我が2001年GW四国巡礼の旅は終わってし まうのか。 朝飯を食って8時、空荷でせめてもう一度山頂を 踏みたいと、ザックを置かせて貰って小屋を出た。 軽快に笹原まで舞い戻り、恐らくコースタイムの 6掛けくらいで山頂に辿り着いた。遠望地図を見 直してまた愕然とした。剣山も見えるであろうこ とは理解できる。しかしながら、更に瀬戸内の彼 方に、大山までもが見渡せるようだった。痛恨だっ た。すると大山からこちらも望めると言うのか。 この笹ヶ峰も然ることながら、晴れた大山にも行 かねばなるまい。 当初の予定では、ちち山から銅山、別子を目指す 積りであった。が、昨日と変わらぬ天候でまた7, 8時間の歩行は苦しい。せめて、ちち山だけでも、 と思ったが、指導標も無く、踏み跡が3方向くらい に分岐していて、どれが正しいのかどれも正しい のか、皆目見当も付かないため、これ以上の気苦 労は無理と、残念ながら、来た道をそのまま引き 返すことにした。 5月3日である。登山口から登って来る者も多かっ た。小屋に戻り着くと、一ファミリーが遅い朝飯 を摂っていた。お茶を分けてもらいながら、しば し山話を咲かせた。オヤジさんは会社の研修で戸 塚にも出向いたことがあると言う。このファミリー も、日帰りとは言え、この天候では面白くもない であろう。また、彼らにとって我がザックの大き さは、驚異に映ったことだろう。残った食料以外、 使える物は殆ど利用して来た。軽くなったとは言 え、今もなお重いことには相違なかった。そろそ ろバスを目指すのでと、彼らに礼を言い、小屋を 去った。 山道を下り続け約一時間で登山口である。バス停 まで、ここから更に2時間半も林道を歩かねばな らぬ。風はないが、小雨は未だパラついていた。 林道ゆえに指導標も無く、果てしなく続く様に飽 きが来てしまった。歩行者オンリーのショートカッ トルートも発見できぬまま、1時間は経過した。 これだけ歩いて、果たして方向が間違ってはいな いだろうか。昨日までの笹尾根も果てしなさ過ぎ たが、今日の林道歩きも半端ではなかった。雨も 降ったり止んだりである。 吉井川のせせらぎ、轟音が彼方である。何本のブ ナの下を潜り抜けたことだろうか。ここまで来て 道を間違えていることが発覚しようものなら、卓 袱台返しモノである。しかしながら、見渡す限り ひっくり返せる卓袱台も、無い。 林道を歩き続けて2時間くらいか、彼方に中央線の ある道路が見えた。この静かな山間の片田舎に、 化石燃料を無駄に爆音を立てて行く車のノイズも 木霊して来た。下津池のバス停も近いのか。あれ は、パリの灯か。 12時45分、長かった山下りも愈々終焉を遂げた。 天候には見離され続けだったが、達成感は存分あっ た。その満足感を嘲笑うかのように、目の前のR194 を自家用車が幾台も通り過ぎて行った。 特に休める場所もなかったが、未だバスの時刻ま で30分近くはある。水も食料も余っている。完歩 ラーメンでも食おうか。 目の前を爆音轟かせながら走る車の群れを他所に、 一人黙々とラーメンを食った。餅も入れてみた。 この旅最後の力ラーメンである。ラーメンは味噌 の味がした。ラーメンに海苔は通常は敬遠モノな のであるが、今回は特別、韓国海苔も浮かべてみ た。この韓国海苔、形も綺麗に整った行儀の良い 海苔であった。塩も少なく、果たしてハングルだ け書いてあって実は有明産の海苔なのではないか と疑いたくもなってしまった。そして出汁は髄ま で飲み干した。思えば長かった。一麺一麺、実は あまり変わり映えはしなかった。一麺一麺、それ でも残らず食って来た自負だけが残った。そんな 旅も偶には存在しても良いではないか。一麺一麺、 また・・・ マイクロバスが来た。下津池でジモティとアント ニオの2人を乗せ、漸くバスの乗員は3名となった。 車内の張り紙に、ダイヤ改正にて、利用者減のた め本数自体を減便せざるを得ない、とせとうちバ ス社からの通知があった。ジモティがバスに乗ら ないから、最後にはジモティが苦しむのだ。国道 は吉井川に沿って瀬戸内方向へと続いて行った。 やがて、半面建設途中の松山自動車道を潜った。 そして、ある光景が蘇ったのである。 西条駅行きのバスが、あの地点に迫っていた。左 折すれば石鎚登山口の交差点である。あの、ビガ ロ、永さん、しげるとタクシーを便乗した、あの 県道である。辛くもこのバスは、その交差点を回 避しながら進んで行ったが、やがて川を渡ってい つか来た道へと合流してしまった。遂に。俺の旅 は、これで終わったような気がした。何か不思議 と焦燥感に襲われた。吉井川は徒に流れていた。 雲行きは今尚怪しかった。また西条に舞い戻って しまった。4日間、俺は一体何をして来たのだろう か。何故西条に戻って来てしまったのか。運ちゃん は、そんな俺の気を知る由も無く、GWに入って渋 滞の激しくなった市街地を、ただただルーティン ワークの一つとして運転をこなしていた。 バスは西条駅に到着した。レインウェア上下にザッ クカバーのままだった。銭湯か温泉に行きたい。 駅前観光案内地図を見遣る。電話帳を探す。あっ た。徒歩圏内ではないが、隣駅からは近そうだ。 電話で確認すると、駅から徒歩3分とのことだ。 西条始発の電車に乗って、次の駅、石鎚山で下車 した。目指すは石鎚温泉だ。 思ったより近代化改装されていた。嘗て名古屋は 千種の銭湯で初体験した電磁風呂を始め、ジャグ ジーは然ることながら、サウナは低温塩揉みと遠 赤外線もので2部屋、薬草風呂、そして外とは言え 壁を見るだけでしかないのだがエセ露天もある。 エセながらかなり熱く、その反対側を見遣れば、 打たせ湯まであるではないか。なかなか豪華絢爛 ではないか。当初の予定のマイントピア別子は、 どちらかと言うと遊園地気分で山家がノンビリと 言ったムードは少なく、入湯料は千円を越えてい た筈だった。ここは450円でこれだけ揃っているの だ。正義は勝ち誇りながら、肩の痛みを、脚の痛 みを癒していた。なかなかやるではないか、石鎚 温泉。 品川行きのバスまで未だ3時間もあった。当然、風 呂で失った水分を補う必要があった。実は昨晩、 発泡性麦茶を飲めなかった。スタッフに言えばひょっ としたら隠しビールを提供して貰えたのかも知れ ぬ。休憩場のテレビには、三浦洋一が刑事役で登 場していた。懐かしい映像であった。 西条駅に戻り、遥か彼方に見える、ダイエーのマー クを目印に、夜行バス内で貪る食事を模索するこ とにした。しっかり今週発売の週刊百名山も入手、 焼き立てパンを4つ購入した。 駅前に戻り、時間まで待合室脇のさぬきうどん屋 でうどんとビールの青写真を描いていた。しかし、 駅前広場の向こうの、お好み焼屋が目に付いた。 お好み焼定食と生を注文し、生だけは直に登場し たが、肝心のお好み焼きが遅い。何時の間にかバ スの発車時刻まで20分を切ってしまったので、怒 りを抑えながら「時間がないから」とビール代だ けを払ってお好み焼屋を辞去した。厨房をチラッ と見遣ると、お好み焼き屋の癖に、一枚一枚フラ イパンで焼いていたのである。何たる道具不足な 店だ。ふざけている。アントニオを食い物で怒ら せるとは、今後食品業界で生きていくことは不可 能ではないかと思う。 見方によっては、「折角パンも買ったのだから、 縦走が終わったとは言え、あまり食い過ぎるな」 との神の思し召しだったのかも知れない。余分な エネルギー摂取から免れ、複雑な気持ちの中、30 日にバスを降りた登道までやって来た。何だ、目 の前にたこ焼き屋や弁当売りがあるではないか。 でも今回は見送ることにした。バス停は高速バス を待つ客でごった返していた。アントニオ程の大 きなザックを担ぐ者は見当たらず、座れない者も いると言うのにベンチを荷物で占領してしまう融 通の効かない輩がいるのは四国でも同じようだっ た。 我が1号車は割と早く到着した。このバスに乗車し てしまった以上、これで本当に四国とはオサラバ である。 バスは松山自動車道を東進している。山脈から見 渡す予定だった瀬戸内の夜景が眩しかい。意味も 判らぬまま洋楽のBGMに身を任せながら、空虚感 を掻き混ぜられていた。 疲れた筈なのに寝付かれぬまま、バスはなお東へ 進んで行った。真っ暗な瀬戸大橋を渡って行った。 気が付くと、名前に見覚えの無いSAに停車してい た。これはきっと、中央道に違いない。 5時半過ぎに談合坂SAに到着した。予定では東名の 足柄SAに4:30頃に到着する筈だった。アナウンス に因ると、未明の御殿場で死者を伴う大事故があっ て通行止めになったため、中央道に迂回している とのことであった。やがて新宿あたりから都心環 状線に入り、何時か見た、芝公園で高速から抜け 出、お客さんやメーカーの事務所の近くを掠めな がら、なんと、これだけ迂回しながら定刻通りに 浜松町BTにバスは到着した。いやはや、運ちゃん の職人芸にはほとほと感心させられた。 半分以上の客を降ろし、軽くなったバスは品川BT にやや早めに到着した。トランクに預けたザック を回収し、とぼとぼと品川駅を目指した。京浜東 北、横浜線と乗り継ぎ、出発前と変わり映えのし ない鴨居駅に到着した。朝飯は何にしようか、松 屋やマックにはそそられたが、いち早く帰宅して ザックを肩から降ろし、衣類の洗濯とテント等を 干し捲くらねばならぬ、そう心を鬼にしながら何 処にも寄り道もせず、重成庵に舞い戻って来た。 新聞が大量に届いていた。ビガロの事故を社会面 で隈なく探した積りが、終ぞや見つけることが出 来なかった。あれは一体何だったのだろうか。本 当に俺は山に行って来たのだろうか。雨の中、た だ修行をしただけなのかも知れぬ。しかし、振り 返るとそれ程損をした気分も無い。得る物はあっ た。そして、またあの山道を訪れたいとも思った。 今日は洗濯やテント干しに明け暮れようか。悔し いくらい、晴れ上がった5月4日だった。 (完) ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ 付録: 山旅アドバイス ・スパッツは必要ないと思ったけど、スラックスの裾を 濡らしたくなければ要持参。 ・下津池−伊予西条間のバスは一日3本しかない。 せとうちバス。せとうちバスは未だにホームページなし。 ・部屋着程度で良いからズボンの予備があると 他が濡れて乾かす時間に重宝。 ・土小屋〜寒風山まで林道が沿っているが、本編にあるように 伊予富士〜寒風山の間は偉く湾曲して遠回りになる。 悪天時は特に注意すべし。 特に瓶が森ヒュッテ〜丸山荘の間は天場、避難小屋は一切無い。 知力、体力、精神力、天候などを総合して出発時刻も 誤りなく判断すること。 ・丸山荘は予約をしないと食事がないこともあり。